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札幌高等裁判所 昭和58年(う)149号 判決 1984年7月24日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人田中燈一提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

量刑不当の論旨に対する判断に先立ち、職権をもつて調査すると、左記のとおり、原判決には、被告人の責任能力に関する事実の誤認があり、原判決は破棄を免れない。

原判決挙示の各証拠によれば、被告人が、原判示のとおり、金員を窃取しようと企て、昭和五八年八月二五日午前一時四〇分ころ、帯広市内の原判示のマソション西側駐車場に駐車してあつた中川祐二所有の乗用自動車内において、ダッシュボードの蓋を開けて金員を物色したが、発見できなかつたため金員窃取の目的を遂げなかつたことは明らかである。

しかしながら、右各証拠のほか、原審で取り調べた被告人の司法巡査(二通)及び検察官に対する各供述調書、道見吉之の司法巡査に対する供述調書、検察事務官作成の前科調書、被告人の当審公判廷における供述、当審で取り調べた鑑定人北海道大学医学部附属病院精神科神経科医師上野武治作成の鑑定書、北海道立緑ヶ丘病院長西堀恭治作成の捜査関係事項照会書に対する回答、国立十勝療養所長丸山信之作成の「捜査関係事項照会について」と題する書面、函館少年刑務所長田中清治作成の「捜査関係事項照会(回答)」と題する書面、里見龍太の司法巡査に対する供述調書、大江覚の司法巡査及び検察官に対する各供述調書、帯広区検察庁検察官副検事村上實作成の電話聴取書、札幌拘置支所長舛屋一作成の「捜査関係事項照会書について(回答)」と題する書面、札幌拘置支所医務課医師島田泰栄作成の診断書、道見吉之の検察官に対する供述調書等を総合すると、

(一)  被告人は肩書本籍地で出生し、同地の小、中学校を卒業し、次いで高校に進学したが三年生で中退したこと、ところが高校在学中から家庭内において背徳行動に出るなど道徳的感情の低下が顕在化し、次第に非行化し、昭和四一年ころから昭和五七年三月ころまでの間多数回にわたり種々の非行又は犯罪によつて検挙され、昭和四一年一〇月強姦の非行により中等少年院送致処分を受けたほか、昭和四六年一月傷害及び暴行罪により罰金刑に、昭和五五年七月窃盗罪により懲役八月・三年間保護観察付執行猶予に、昭和五七年三月窃盗罪により懲役八月に各処せられ、右執行猶予は取消され、同年四月一〇日から昭和五八年六月二四日まで右各懲役刑により服役したこと、

(二)  その間、被告人は、昭和四三年四月(当時一九歳)、精神鑑定医により精神分裂病の診断を受け、同年五月一日から昭和五六年五月までの間合計八回にわたつて同病により入退院を繰り返したこと、右各入院の契機となつた被告人の症状ないし異常行動又は各入院中に観察された主症状等は、被害妄想、幻覚、幻聴、ひねくれ、反抗拒絶、疎通性の欠如、空笑、自閉、自室への閉じこもり、易刺激状態、様々の衝動的行動、器物損壊、傷害、興奮不穏、多弁多動、誇大的言動、女性に対する性的問題行動、不眠放浪等であり、更に、前記刑の服役中にも反抗、乱暴、拒食、不眠俳徊、その他の異常行動を示し、外部の専門医の診察を受けたところ、幻覚、妄想等が認められたこと、

(三)  昭和五八年六月二四日被告人は前記懲役刑の服役を終えて出所し、実家に帰住したが、約一週間で家出し、その後は、日中は帯広市内で碁会所に通い、夜は同市内の旅館に以前から知合つていた女性と泊り歩いたり、駅構内等で眠り、就労意欲を全く欠如し、所持金がなくなると実家に戻つて父親に金銭をせびり、これを断られると乱暴をし、また父親の預金通帳等を勝手に持ち出して預金を引き出し、あるいはサラ金から金借し、これらを見さかいなく浪費し、約二か月間に約六〇万円を費消する有様であつたこと、

(四)  本件犯行の直前ころも、被告人は右同様の生活状態を続け、所持金も使い果たしていたが、犯行前日は午後一時ころから約一〇時間にわたつて碁会所で囲碁に熱中し、その後、空腹と著しい精神的疲労状態で同市内を歩行中、翌二五日午前一時四〇分ころ、アパート横の駐車場に駐車中の原判示の自動車を発見し、食物か金銭でもほしいと思い、同車のドアを開けて物色するなどして、本件犯行を犯し、その直後、目撃者の通報により警察官に緊急逮捕されたこと、

以上の事実が認められる。

そこで、右認定の事実に当審で取調べた前記鑑定書及び証人上野武治の当審公判廷における供述を合わせて、本件犯行当時における被告人の精神状態について検討する。

右鑑定書及び証人上野武治の供述によれば、本件犯行当時、被告人には意識障害はなく、また、妄想、幻覚、幻聴などの急性増悪期の症状を呈していたことはないこと、しかし、進行性の精神分裂病に罹患していたことは明らかであり、その症状は不安定であり、再び急性増悪期に移行するおそれのある状態であつたこと、しかも、精神分裂病においては急性増悪期に過ぎた後にも人格障害を残すことが多く、ことに患者の罹病歴が長期間に及びかつ頻回にわたつて急性増悪期の症状を発現した場合には、その人格障害の程度も顕著であることが通例であり、被告人も昭和四三年以来本件犯行直前まで十数年間にわたつて罹病し、最近数年間は毎年のように急性増悪期の症状を呈して入退院を繰り返していたことからすると、その人格障害の程度は相当重いものであると考えられること、更に、被告人は発病前から性格的偏りの大きい性格の持ち主であつたところ、これに発病以後に生じた人格の病的障害が加わり、思考の単純化、独善化と弾力性の喪失、道徳的感情の深刻な鈍麻、自己抑制力の低下、自閉性、感情易変性、知的能力の低下及び社会的対人状況能力の著しい低下などを招来していたこと、しかも、精神分裂病のもたらす障害は人格全体の核心に及び、この病気が進行中であるかぎり、患者の全人格は病的変化の力の支配下にあると考えられ、病状と行為との直接的関連性については第三者からみて窺い知れないものがあると考えられ、ことに、本件犯行時には、空腹と精神的疲労が加わり、自分自身に対する自覚もなく、抑制力を失い、発作的に本件犯行に出たとみられる、というのである。

右鑑定人の鑑定結果及び当審証言は、前記認定の諸事実に照らし、十分な事実上の基盤をもち、かつ、その所見は合理的で首肯するに足りるものと認められ、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。右鑑定結果等によれば、本件犯行当時、被告人は進行中の精神分裂病に罹患し、急性症状はみられないが、頻回に及ぶ急性増悪期を経由して人格全体がその核心から病的障害を受け、その影響の下に思考の単純化、独善化及び道徳的感情の深刻な鈍麻等をきたし、平生からほとんど社会的適応力を欠いていたほか、空腹及び著しい精神的疲労状態等も加わつていたため、洞察力及び抑制力が低下し、行為の違法性を判断し又はこれに従つて自己の行動を統制する能力を欠き、刑法三九条一項にいう心神喪失の状態にあつたか又はそのような状態にあつたとの合理的疑いがあるものと認めるのが相当である。

そうすると、原判決には事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により被告事件について更に次のとおり判決する。

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、金員を窃取しようと企て、昭和五八年八月二五日午前一時四〇分ころ、帯広市西六条南一三丁目川上マンショソ西側駐車場に駐車してあつた中川祐二所有の普通乗用自動車内において、ダッシュボードの蓋を開けて金員を物色したが、発見できなかつたため金員窃取の目的を遂げなかつたものである。」というのであり、右犯行事実はこれを認めることができるが、前示のとおり被告人は、右犯行当時、心神喪失の状態にあつたとの合理的疑いがあるので、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により、被告人に対し無罪を言い渡すこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

(渡部保夫 横田安弘 肥留間健一)

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